本州最東端のヨギー達

本州最東端の地元宮古市で活動するヨギー・ヨギーニの話。

ヨガで理想の自分になれるのか?

皆さんこんにちは。

今日はちょっと家族ネタから離れて純粋にヨガの話です。

 

このタイトルに惹かれてこの記事を読んでるって事は、画面の前にいるあなたはきっと少なからず”理想の自分”というものに興味がある、あるいは憧れている人なんだと思います。

 

誰だって理想とする自分の姿があって、それにヨガで近づけるなら素敵ですよね。

ヨガは身体を使うからスタイルだって良くなりそうだし、ヨガ哲学ヨガ哲学ってうるさく言うくらいだから、なんか内面も磨かれていきそうだし?

 

では早速結論を申し上げたいと思います。

 

 

ヨガで理想の自分に…

 

基本的になれません!

 

いや待って、画面閉じないで。

まあ少し辛抱してもうちょっと読み進めてくださいな。

 

f:id:snowwhitecross:20201125150314j:plain


 

理想の自分云々という前に、ちょっと”自分”というものについて考えてみたいと思います。

簡単に分類すると”自分”は少なくとも3人います。

 

別にドッペルゲンガーみたいなカルトな話じゃなくね。

 

①本当の自分

②理想の自分

③パブリックイメージが投影された自分

 

ヨガでは①の”本当の自分”に還っていきます

そしてちょっと乱暴な表現ですが、その”本当の自分”をブラッシュアップしていくのがヨガです。

 

②の”理想の自分”は一見目標として掲げても良いように思えるかもしれませんが…。

はい、その理想像を掲げたのは一体誰?

今この時点での、まだ有限でちっぽけな、本当の自分でもなければブラッシュアップもされていない”歪みだらけの今の自分”が描いた理想像な訳です。

そんな人間が、そもそも適切な目標設定が出来るとお思いか?

大抵の場合、虚像です。理想像と言えば聞こえは良いけれど、エゴの塊の姿と言ってもいい。

 

そして人は誰しも色んな立場を持って(家ではお母さん、職場では上司、みたいな)、色んな人と関わって生きているから、他者から見た自分の”イメージ”というものもあります。

本当は誰かに頼りたいのに、甘えたいのに、周囲から「しっかりした人」と思われているから本心をひた隠しにして歯を食いしばって頑張っている…なんて人も世の中多いんじゃないでしょうか。

「立場が人をつくる」と言いますが、それがのびのびと本当の自分らしく過ごすのを邪魔する事も多いもの。

外野は気にしないわ、という強いメンタルの持ち主ならあまり問題にならないでしょうが、③は”本来の自分”に立ち還るのを阻害したり、自分をブラッシュアップする時に方向性を見誤らせる可能性を持った地味に厄介な3パターン目の自分です。

 

たまに

ブラッシュアップした本当の自分=理想の自分

という”本当の自分”の延長線上に”理想の自分”が位置づけられている人がいて、そうゆう方はブレる事が少ないからとてもラッキーだと思うし「ヨガで理想の自分になれました!」という体験談はきっとそのパターンの方が言ってるんじゃないかなと思います。

 

でも実際は多くの方が”本当の自分”とは大きくかけ離れた”理想の自分像”を持っている場合がほとんど。

 

私はバリニーズマッサージも仕事でやらせていただいているので、そのカウンセリングの中で色んなお話を伺うんですが、多くの方が”自分の本来の質”とは違うものに強い憧れを持っています。

傍から見ていれば”本来の質”だってすごく素敵なものばかりなのに。

まあ、人間はいつだってないものねだりで、隣の芝生は本当に青々と綺麗に見えるものですもんね。

 

f:id:snowwhitecross:20201125150331j:plain

 

だけどね、昨日よりも今日ほんの少しでも良い自分になりたいと思ったら、”本当の自分”をまずは認めて受け入れるしかないんです。

”本当の自分”である事がまずスタート。

いくら自分を誤魔化して「私は〇〇じゃない。私は◇◇な人間のはず」と”理想の自分”を目指した方向違いな努力をしたところで、石ころに金ピカのメッキを厚塗するようなものでいつか必ず剥げる日が来るし、中身は汚い石ころのままなんです。

 

いつか崩れ落ちるメッキを貼り続けるよりは、たとえ自分が望んでいないカラーの石だったとしてもその石そのものを磨き上げた方が有意義だと思いませんか?

 

赤い石が良かったのに、あなたは青い石かもしれない。

打たれ強い硬い石でありたかったのに、すごく硬度の低い繊細な石かもしれない。

(実際、これを書いてる私自身、昔理想としていた女性像とは全く違う方向に進んでますが、非常に生きやすくなりました)

 

でも、不貞腐れずに自分を受け入れて磨き始めれば、その石なりの良さや輝きを発揮します。

ダイヤだって研磨しなければただの石。

まあ、そうしたところで本当はなりたかった赤い石が隣に不意に現れたらすごく羨ましくなったり妬ましくなったりもするだろうけど、そんな時は「あなた素敵ね」で良いじゃない、と思うのです。

 

同じようにあなたを素敵と言う人も必ず他にいるはずですからね。

 

というか、そんな妬み嫉みスイッチが入りそうな時程、一旦やせ我慢で良いから「素敵ね」って言った方が良いと思うんですよね。

「立場が人をつくる」とさっき出てきましたが、言動もその人をつくります。

 

妬みや嫉みは品格を簡単に堕とすから、やせ我慢してでも「素敵」ってプラスの言葉を放ってしまえば段々それが行動としても脳の思考パターンとしても習慣になっていきますから(脳は習慣が好きです)。

ヨガでは嘘をつく事はヤマ・ニヤマの中で慎むよう言われていますが、これは嘘じゃないですから。

 

だって、素敵だと思ったから妬みや嫉みという感情が頭をもたげたんでしょう?

それなら、より先に生まれたであろう「素敵」という感情の方だけを表に出すだけの事。

あなたの口から「素敵」を世界に送り出すか、「妬み」を世界に送り出すかで、その後貴方を包む空気は全く違うものになるのは言うまでもありません。

あなたを取り巻く世界はあなたの言動が還ってきた世界なだけですから。

単純に嫌ですよね、妬み全開の人と関わるの。

 

 

 今私達はこのコロナ禍で日々自分自身や生き方を試されたり、模索していかなければならない毎日を送っています。

 

平時だって、自分をブラッシュアップしてより良い自分になっていくのは簡単な事じゃない。

それをこの先行き不透明な世界でやらなければならない。

 

簡単な事ではないけれど、石ころの現状維持が嫌なら投げ出しても仕方ない。

簡単ではないからこそ、乗り越えた時の価値もひとしおです。

 

難しい世の中だけど、ヨガの教えが自分である事、自分をより良くする事を諦めない人の助けになりますように。