本州最東端のヨギー達

本州最東端の地元宮古市で活動するヨギー・ヨギーニの話。

知足。サントーシャの話。

なんだかヨガらしいタイトルが久しぶりのような。笑
ヨガを伝える・広める仕事をしていると本当に色んな「世の中でのヨガのイメージ像」と出会います。
「健康(美容)体操じゃないんですか」
「ストレッチだと思ってました」
「ヨガで筋肉なんてつくんですか」
「スポーツの一種じゃないんですか」
などなど…
皆さん思い描くヨガの目的も運動強度も本当に様々。
そしてまだヨガと言えば健康体操・美容体操のイメージの根強い日本ではヨガの思想は置いていかれがち。

 

私、ヨガ哲学のヤマ・ニヤマの中でもサントーシャ(知足)の考え方が好きなんですが(いや、全部大事で好きだけど)、これ、人の幸せに不可欠な概念だと思うんですよね。
足るを知る。
満足する。
言葉にすればこんなに短い一言なんだけど、これって案外難しい。

 

テレビやSNSなんかで誰かのキラキラした日常を簡単に垣間見れるようになった昨今、そのキラキラっぷりが多少加工されたものだったり良いところだけ切り取られたものだったとしても、人は自分の暮らしと比較して落胆したり羨んだりしがち。

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関係ないですが、POYANICAの庭で咲いたヨハンシュトラウス。こうゆうのを見るだけでもちょっと人生が満たされた気持ちになります。笑

私はヨガ哲学に限らず物事の解説や説明を聞いたとき「頭で理解するのと腑に落ちるのは別」と考えるタイプなんですが、結構ヨガ哲学も先生に師事して講義を聞けば文言として理解できる事は多いと思うんです。
でも「腑に落ちる」とか「自分自身の中でしっくりくる」というのはまた別問題。

 哲学だけじゃなくアーサナの練習も「先生が言う理屈は分かるけど、でも理屈が分かったところでこのアーサナはまだ出来ない」とかあるじゃないですか。
それが何かの拍子に不意に出来るようになったとき「あぁ先生が言ってたのはこれの事か!」とまるで電気が走ったかのように今まで自分の中で散在していた「理屈」の断片が繋がって自分のものになるんですよね。

 

「理屈の理解」はいわば単なる情報整理。
だから「腑に落ちる」というのは「理屈の理解」の先にある整理した内容を自分のものにする「所有する行為」だと思うんです。

 

で、なんでこんな話をするのかと言うと。
私にはとても思い出深い瞑想がありまして、起こった出来事は本当に小さい小さい事なんですが、私にとってはタイトルのサントーシャを感じる非常に衝撃的で大きな出来事だったんですね。

 

たまにレッスンでもシェアする話なので聞いたことあるな~という方もいらっしゃるかもしれませんが。
ある日いつも通りに瞑想していた時の事。
当然雑念は沢山浮かんできます。
ひとつ手放し、またひとつ手放し…と繰り返していたら、不意に浮かんできたのが自宅の冷蔵庫に入っている傷みかけのニンジンだったんですね。
「あ、今日の料理であのニンジン使わなきゃ」
そう思ったとき、私はなんだかとんでもなく大事な事に気づいたような気がしたんです。

「あれ、私の人生ってものすごく恵まれてて幸せなんじゃないか」と。

 

瞑想していて浮かんでくる考え事が、たかだかニンジン。
死ぬ程悩む大きな問題を抱えている訳でもない。
今日明日の食べ物や生活に困っている訳でもない。
夫をはじめとする家族とも仲がいい。
何かあったら頼れる友人知人も沢山いる。
そもそも今この瞬間、こうして穏やかに座って瞑想していられる環境を持っている。

 

すごくすごく幸せな人生じゃん。
満たされてるじゃん、私。

 

それまでも当然「サントーシャ」という言葉の定義を聞いて「うんうんそうゆう事ね」と理解はしていたけれど、「あぁ自分は満たされてるんだなぁ」と頭じゃなく心から感じたというか「満たされた感」を得た大きな出来事だったんです。 

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SNSやメディアを見れば、自分なんかより沢山の何かを持ってる人なんてごまんといるけど「沢山もっている事」と「満たされている事」は別。
そして自分を満たしてあげられるのは自分だけだし、今不足を感じているならそれは自分で満たさない事を選んでしまっているんですよね。
すでに5持っているけど、誰々のように10持ってなきゃダメな人生!みたいに自分で決めちゃってる。自分は5で幸せな人かもしれないのに。
例えになるか分からないけど、カレーの辛さを選べるお店で10辛じゃないと満足出来ない人もいれば1辛がちょうどよくて美味しいって人がいるように、自分にとっての適量があるんじゃないかと思うんですが…。

 

ヨガをやってる人は皆、自分にとって大事な気づきを得て日々過ごしてると思うんですが、その「自分で感じた」というのがとても価値のある経験だと思うんですね。
その人がその人の人生でしか得られない唯一無二の気づき。
きっとその人自身でしか見つけられない「自分を満たすための気づき」がどこかにあるはず。
それを見つけられるのは今日かもしれないし、来年かもしれないし、数年後かもしれない。
当然私には人の気づきのタイミングなんて予想もコントロールも出来ない。
いつになるかは分からないし、人さまどころか私自身の今後の気づきもいつどこで何が起きるかなんて分からないけれど、それでもやる事に価値と意味を感じているから私含め人はヨガをやるんでしょうね。

 

というか、私のニンジンの理屈でいったらヨガ出来る環境にいるってだけで幸せで良い人生じゃないですか!笑←幸せの閾値が低い人。笑
別にヨガ起因でなくてもいいから、1人でも多くの人が満たされて幸せに過ごせますように。